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ハウステンボスと筆者との関わり


チューリップ畑と風車

筆者が始めてハウステンボスを訪れたのは1996年の3月でした。チューリップ祭り真っ盛りの暖かい日でした。ハウステンボスの敷地の外れに「TAO(現在はNICT)」という組織が研究機関を作ったのですが、そこの研究員にアドバイスするような仕事(フェローとか言ってました)を電通さんからもらったのです。その施設のコンピュータ機材の搬入とセットアップのため出張した筆者は…


1996年

きっかけはTAO
SGI Indigo21996年3月中旬ごろ、別働隊が機材を一通り搬入していった通信・放送機構(現在は、NICT 独立行政法人 情報通信研究機構) 佐世保リサーチセンターのオーサリングルームで担当のMacintosh5台ほどとSGI Indigo2 extreamを一台、の各種ソフトウェアのインストールを始める。デジタルビデオ編集用のMac以外は、PhotoshopやIllustrator等の普通のアプリケーションだけなので特に問題はない。問題なのはRadius Video Vision Studio Proが間に合わなくて(Pinacleに買収される前の)TureVisionのTarga 2000をインストールしたMacだ。1996年当時は非常に高価だったSCSI RAIDを組んだにもかかわらず、Targa 2000のMotion JPEG圧縮伸長codecが要求するデータ転送レートが出せずに、取り込み再生ともボロボロコマ落ちする。また、ケーブルの品質が低く、ノイズが載りまくる。困った事だと思いつつ、あらん限りのアイデアとテクニックを駆使して何とか使えるようにセッティングする。Indigo2も難敵で、IRIXの経験があまりなかったのでAliasのPowerAnimator(現在のMayaの前身)のインストールに苦労する。Indigo2にはこれまた高価なディスクレコーダーのAccomが接続されていて新輝さんがセットアップしていったのだが、あれは今どうなっているんだろうなあ?とにかく3月中に確か二度、4月と5月にも出張してなんとかオープニングに間に合わせた。この時点での筆者とハウステンボスとの関係は、出張場所がそこであるという以外はまるで無い。
コンテンツ分科会
佐世保リサーチセンターオープニングセレモニーでは長崎県知事がなぜか酔っぱらっていたり、マックおたくらしい郵政省(当時)の事務次官に質問攻めにされたりしながら何とかこなし、6月から本来の業務としての会議に参加するようになる。この頃は日帰り出張が多くて、朝8時ごろの長崎便に搭乗し長崎空港に10時過ぎに到着。佐世保行きの高速バスに乗って昼前にハウステンボス(と言っても人材センター)着。社員食堂で昼飯を食って午後から全体会議。終わったらコンテンツ分科会。分科会のメンバーは、長崎大学の黒田英夫教授。画像符号化の大家だ。松下から派遣されている研究員。ハウステンボスからのフェロー数人。松下と電通からのフェロー。富士通さんはこっちの分科会には居なかったかな。あ、電通からのフェローってのが筆者。もちろん電通の下請けだけど。分科会が終わったら5時ごろの長崎空港行きの高速バスでハウステンボスを発ち、7時過ぎの羽田便で帰る。これを毎月繰り返していた。場内に入る事は滅多になかった。ときどき今は無き「マルチメディアカフェ」を視察したりするくらいだったかな。そうこうする内にハウステンボスのスタッフとも親しくなっていく。まだハウステンボスのホームページがsasebo.sasebo.tao.or.jpの中にあった時代である。このURLもすでに無い。

1997〜1998年

蜜月:制作とコンサルティング
ライトアップされたドムトールン佐世保リサーチセンターの仕事は1997年の1月で終了した。というか電通からの仕事は本来3年契約だったのだが、当時勤めていた会社を筆者が逃げ出したため、フェローの仕事はかわいそうに別の人間が引き継ぐ事になった。この会社は筆者が辞めてからさらに経営が悪化し、数年後に倒産している。フリーになって2ヶ月ほどブラブラし、現在の会社に拾ってもらった1997年4月頃、ハウステンボスのとある部署からとある仕事のオファーがあった。縁が切れたと思っていたのに呼んでもらえるのは単純にうれしくて、喜んでその仕事を受ける事にし、またしても佐世保通いが始まった。そのプロジェクト自体は一ヶ月ほど関係者を疲労困憊させまくり、めでたく7月で完了したのだが、その後も担当部署のコンサルティングの仕事を頂き、またしても月一回の出張が繰り返される事になる。この頃の担当部署は当時の社長神近氏の「右腕」と呼ばれた人物の庇護下にあったため、環境や予算の面でもそれほど厳しいものではなかったように思う。出入り業者の観察なので、実情は違っていたのかもしれないが。

とにかく、1997〜98年にかけては「コンサルティング」と「突発的な制作」という二本立てで出入りしていた事になる。突発的な仕事の代表としては1997年および1998年大晦日の「カウントダウンショー」オープニングに流れたのCGの制作あたりか。LightWave 3Dで制作したものだが、会社の空いているPC全部(といっても5〜6台)にネットワークレンダリングのソフトを突っ込んで、80秒ほどのCGを10日間ほどで作り上げた。2003年現在ならPC一台で一晩程度の計算量かもしれないが、5年前はとてつもなくストレスのかかる仕事だった。もうこの当時からハウステンボスの景気が良くない事はひしひしと感じられてはいたが、私の担当部署とはそこそこ平穏にお付き合いが続いていた。(つづく…)

1999〜2000年

疎遠な時代

2001年

復縁

2002年

新たなメンバーとの出会い
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